正確にはまだ21.05本くらいで、今もその数値が少しずつ増えています。
さて AI校正Shodoアドベントカレンダーをやろうと思い立ったのは11月の中旬ごろでしたが、目的としてはもちろんマーケティング的な意味合いもありつつ、ドッグフーディング的な意義もありました。「大量にブログ記事を書いたときにどうなるのだろう?」と試すことです。
その結果、今さらながらブログを書くことについて色々と気づいたのでそれを残したいと思います。というよりも、今の時代だからこそ新しく気づけたことがありました。
気づいた:もっと小さい記事をたくさん書いても良い
なぜか「記事を書く」という感覚が重くなり、書くとなると妙に重厚な文章(もはやドキュメント)が完成する経験はないでしょうか。あれはもうやめちゃって、ショート動画感覚で読める軽い記事を書いたほうが、気持ちが楽なので良いと気づきました。
最近はQiitaの記事やZennの記事もしっかりと書かれたものが多く、書籍化するものも多くあります。昔の世の中は本当に雑なメモも多かったように思いますが、最近は「ちゃんと正しく網羅的でないと」という感覚があります。
ですがそうなるとどうしても書く気が起きにくい。それはもったいないわけですね。そこで軽めの記事を書いて、必要ならトピックごとに分割して連載するような形にすれば良いわけです。今回もOptuna Neuronに関する紹介と注意点(とあるバグ回避的な話)を分けましたが、自分の中で区切りもついて良かったと思います。
別にこれはマーケティングの数値的な意味があるというわけでなく、体感として気軽に書き始められるからというだけです。
気づいた:SNSでバズりたいと思わない
SNSでバズる必要も妙に意識する必要もない、そう思うと楽です。もちろん読み手への配慮や炎上しないよう気をつける必要はありますが、よしバズってやろうと書く必要はないということです。宣伝目的でキッチリ狙った記事を書いたり、時事ネタに突っ込むのが必要なときもありますが、基本的な備忘録や紹介などでわざわざ「いいね数」にとらわれる必要はないのかもしれません。
というのも今回、記事を書いていることや、特定の記事については読んでほしいような人からの反応が得られたからです。間違いも指摘してもらえましたし、自分なりに身近な人に伝えられて、自分も勉強になったので良かったなという話です。最近は絵にしろ文章にしろ、表現はすべて万人に受けてバズらなきゃいけない感覚がありますが、それはSNSを運営する人間の思惑なのかもしれません。
気づいた:リモートワークだから「書く脳」を鍛えておく
文章をたくさん書いていると、「書く脳」が動くのか書いていて苦じゃなくなります。先日、社内用のEsaに調べたことのまとめをしたのですが、公開できるレベルの記事を一発で書けた自分に驚きました(これが…力か…的な)。
リモートワークの是非について議論される昨今ですが、たしかにオンラインではコミュニケーションが難しいものです。そのときに単にSlackで会話したり、Zoomをつなぐのではなく、ドキュメントやタスクの説明としてちゃんとまとめるのが重要だと思います。そのときにこういった「書く脳」、書くことが苦ではない状態を持っておきたいものです。そうすれば自分も無理なくできますし、正確かつ無駄なく伝えられるはずです。
ブログを書く意味はあるのか?
ChatGPTに聞けば何でも回答を得られる時代ですが、だからこそ自分の言葉で書く意義が出てきます。たとえば伝えたいことであったり、自分で残しておきたいことだったり、ChatGPTの回答がイマイチだったりしたことは残す意味があると思います。要するに「情報として残す」というより「(未来の自分を含めて)伝えたいこととして残す」ということです。作品、とまではいかないですが。
ChatGPTなどのAIが成長してくると、人にとって重要なのは「その人である」ことだと思います。その人の触れたことを通しての作品であったり、その人の中にある世界観や生の人間としての何かです。僕はAIの会社をやっていますが、目的としては人間の創造・想像する力を引き出すことであり、それ以外の雑多なことをなくすことと決めています。最後は人の言葉や手によってしか人はケアされないのかもなと思っています。
だからこそ、もう少し気軽に記事を書いても良いんだなと思いました。
おわりに
皆さま良いお年を。