雑談です。
AIは牛乳を注ぐ女の夢を見るのか? 牛乳を注ぐ女というのはフェルメールのあの絵のことです。
今の世の中はAI、ディープラーニングの話題がホットです。 ですが今言われるAIはとどのつまり機械学習で、僕が学生のときは「弱いAI」と呼ばれてたように思います。 「AI」なんて言おうものなら鼻で笑われていたので、あえて「集合知」のような言い方をしていたような覚えもあります。
機械学習は十二分にすごいものですが、結局のところは人間にはなれていないなと思います。 人間は、何かを判断するときにも日々の風景や、過去の習慣や常識、昨日食べたステーキの味も参考にして判断しています。 ステーキの味と株価の予測が関係するかは定かではありませんが、その店の中で見た若者の多さとか、店の値段設定から外食産業への投資判断を行ったりはありえます。 要するに、機械学習には感性というか、全く関係がないことを結びつけて考える能力がないわけです (AIさんがランチに出かける日が来るまでは)。
ですが逆に機械学習が今後ももっと発達すると考えると、人類は「強いAI」を求めなくなると思います。 「弱いAI」的な判断や考え方が中心になって、人間的な判断や会話が二の次と考えられるようになると思います。
そういう時代が来るだろうからこそ僕は人間的な感性や、数値に出ないデータが大事だと思います。 なぜなら、人間というのは結局のとこ人間を相手にするものだからです。 どれだけ機械学習や最適化をしても、それは限られた軸の中での世界の話です。 人間の感性を相手に世界が回っている以上、究極は人間の感性にしかできないことがあると思います (少なくとも人間の感性や時代背景、共感性をすべて学習したAIさんが登場するまでは)。
人間の感性的な部分、RX-8に乗って最高のドライブフィーリングを味わう感覚や、アンドロイドは電気羊の夢を見るか?のワクワクや、PH5の光やタリアセンライトにうっとりする感覚や、牛乳を注ぐ女をみて感じるものや、ジムノペディを聴いたりWelcome To The Jungleを聴いて感嘆することが大事なんだと思います。その喜びを知ってるからこそ全く関係ないように思える日々の仕事が素晴らしいものになり、人類にとっての価値が産まれると僕は思っています (機械学習があったとして当時ジムノペディは絶対に作れないと思います)。
ほんとに、フェルメール展に行くのを忘れてたのを後悔してます。 それが言いたかっただけです。