Make組ブログ

Python、Webアプリや製品・サービス開発についてhirokikyが書きます。

自分の言葉で本当に考えて生きているのか

大人になってくると、どうにも他人の言葉をうまく使って、脳死のまま生きていられるのが恐ろしいと思っています。 これはここ5年くらいでジワジワと感じていて、非常に危機感があります。

ありませんか?

たとえば「大手ってそういうもんだよね」とか「寒くなってきたから体に気をつけてね」とか、当たり前なパターンとしての言葉をただ繰り出しているような感覚です。脳も心も動いていません。ただ学習されたパターンに応じて、最適化された点数稼ぎをしているだけです。まるで自分の口を「他者から見た自分」という人格が乗っ取っているようです。

もちろん言葉や思考というものは他人から盗んできたものを継ぎ接ぎしているようなものなので、自然といえば自然なことです。ですがどうにも完全に脳死状態でも生きられる、そして楽がゆえにそうなろうとしている危機感もあります。

僕は自分の頭と心と魂で、本当に考えているのでしょうか?

ティージョブズ1995というインタビューでの一幕を紹介します。

ビジネスの世界では物事が深く考えられていません。 AppleⅡで工場を使ったとき、標準原価という概念を知りました。 まず標準原価を割り出し、定期的に実際原価との違いを計算するという慣習でした。 それは何?と人に聞いても、「そういうものだから」と皆んな言っていました。

でもそれは、実際にはコストがどれくらいになるのか分かっていないので標準原価を一旦割り出し、定期的に実際原価との差異を解消するというものでした。 しかしMacのラインではすべてを自動化して、リアルタイムに正確にコストを割り出せるようにしました。

(意訳、中略してるのでちゃんと見たい人は以下のDVDを買ってください。下のリンクから買ってくれると、僕がRedbullを飲んで生産性が上がって世の中が良くなる手伝いができます)

以前、この話を見たときは「ふーん世の中バカばっかだな。俺はそうならない」と思っていましたが、今になるとこの罠にあっさりハマりそうで怖いです。自分の言葉として理解して納得しないかぎり、本当にそれが必要なのかも知らないままになります(実際に必要のないウンコちゃんなことでも)。 人とコミュニケーションを取っていても、最適化された問題ないやり取りをしているだけで、本当のコミュニケーションをしていない罠もあると思います。

大人になるというのは、自分という人格や体が、心を離れて勝手に生きられる状態のことなんだと思います。 他人や社会が求める僕という人格を作って、それに人生を明け渡して緩やかに死んでいくことなんでしょう。 でもそれは、僕には本当に緩やかに死んでいるのと同じに感じてしまいます。まるで体が徐々にロボットになっているようです。

今一度、何かを話すときや考えるときに、これは本当に僕という人間の魂から出た答えなのかを気をつけたいです。 そこにどんな僕が居るのかは分かりませんが、自分の魂と体の乖離を小さくするよう心がけて生きています。

この記事はShodo (https://shodo.ink) で執筆されました。