Make組ブログ

Python、Webアプリや製品・サービス開発についてhirokikyが書きます。

なぜ声に出して応援できないのかを考える

今日はポエムです。

応援したい気持ちがあっても、声を出して応援する人はとても少ないです。 SNSに書いてくれるのも素晴らしいと思うけど、直接相手に届けようという人はさらに少ない。

なぜなんでしょう。

前提として、そもそも怒りという感情のほうが表に出やすいので批判しやすいというのはあります。 批判するときのほうが困っているので動きやすいというのも、人間的にあります。 でも他に 「応援することへのリスク」のような感情 があったので考えさせてください。

声に出して応援する勇気を持てないのは、何かしらのリスクを回避する気持ちから来ている気がします。 たとえばこんな感じでしょうか。

  • 応援していた人が何か失態を犯してしまった。自分も「間違っていた人間」の烙印が押されてしまう
  • 応援している人に直接気持ちを届けたいが、何だか面倒な人間のようになっているか心配
  • 応援しているものがあるが、つけこまれて信者化させられないか、信者になっててキモいと周りから思われないか

応援することは自分の素の感情をいったん外に出す必要があって、いざというときに自分を守れない(弱みをすでに見せてしまっているという)感情があるのかもしれません。否定する側というのは、自分が少し間違えていたとしても「分かりにくかった相手が悪い」と立場を変えずに自己正当化できます(便利!)。

別に応援してた人が間違ったことをしても悪くはないんです。「こう改善してほしいです」と建設的な批判を展開すれば良いんですから。でもそれは 「手のひら返し」になったような気持ちで難しいんでしょうね。本当は、それができる人こそが応援できる人なんですが、立場が変わるような感覚はとても勇気のいることなんだと思います。

僕たちはもっと手のひら返しをしても良いのかもしれません。応援する気持ちは持ちつつ、僕自身の判断で相手に対して「これは本当にすごい」「ここは良くないと思う」と、もう少し手首をクルクルしても良いのかもしれません。

実際に、応援する、声を届けるというのはものすごくリスキーなことなんでしょう。 とくにこのSNS時代では自分の間違いや勘違い、ある種社会的立場の揺らぎというものがリスクとなります(今の時代、大なり小なりみんな持っているものだと思います)。 「あなたが応援してた人、横領してたってね」、「オンラインサロン初めてやばいことになってるじゃん。炎上してるよ」と後から言われたらなんともバツが悪い気持ちになります。まるで自分の家族が恥をかいてしまったような気持ちでしょうか。

その分、声を大にして応援してくれる人というのは、本当にありがたいことです。建設的な批判をしてくれる人も本当にありがたいです。 そして、マイナスの感情のほうが表に出やすいので、積極的に応援の気持ちを表に出していきたいですし、応援を届けてくれたときは僕の中で100倍にして感謝していきたい と思います。

執筆:Kiyohara Hiroki (@hirokiky)この記事はShodoで執筆されました