Make組ブログ

Python、Webアプリや製品・サービス開発についてhirokikyが書きます。

飽きるなというのは、ただの他人の観点

飽きるって何なんでしょう。

まず前提として、飽きっぽさの違いは性格的にあります。刺激・柔軟指向か、安定・規範指向かの性格的な違いです。それはもう受け入れるしかないとして、ここでは「飽きる」ということについて考えます。前提として、どちらが良いかという話ではなく、僕は性質の話でありどちらでも良いと思います。

世の中では「三日坊主」というように飽きを揶揄する言葉がありますし、飽きるのは良くないという風潮がたしかにあります。でも、同じものを毎日ずっと食べていれば、何を食べるにしても栄養が偏って不健康になります。ずっと同じことをしていれば、それだけ他の楽しみや土地、文化を知る機会を失っているはずです。

ではなぜ「飽きることは良くない」という風潮があったり、そう感じるのでしょうか。それは「他から観測して、容易に想像できる相手が良い」と人間が考えるからです。「いつも同じ相手でいてほしい」「結果を期待したい」と人は思っているからです。飽きるか飽きないかなんて他人の視点でしかありません。 「いやいや、飽きっぽいと上達しないからですよ」と思われたかもしれませんが、それは「上達してほしいという他人としての自分」の観点だからではないでしょうか。自分をうまく制御できると思っている理性の声(他人の声)にすぎません。

世間的に「飽きてほしくない」と思われるのは、(自分を含めて)他人が期待する未来の結果を求めてるからです。人間は期待が大好きなので、しょうがないです。そして「飽きるのは良くない」と感じてしまうのは、その周りの期待する結果に応えられないという気持ちがあるからです。

僕は、飽きていいと思います。

飽きてはいけないのは、他人や論理の視点にすぎません。 一見飽きっぽい人のほうが、自分の道という意味では一番飽きずに生きられていると思います。

ただ、たしかに人の期待に長く応えたいときには、同じことを続けている必要があります。それは安心もですが、何より積み上げて初めて叶う何かを産むからです。人から信頼を得るのと、世の中の問題解決には長い時間を要します。それはたしかに仕方のないもので、そのためにたくさんの可能性を諦める必要がでてきます。 続けるためには、そういった「建設的な諦め」も必要です。「何かをする」という観点から「何かである」という観点へのシフトも必要です。この点については、また別の機会に考えるとします(ブログの購読をよろしくお願いします)。

ともかく、「飽きるか飽きないか」というのは、自分の理性を含めた他人の視点に過ぎないと考えました。 そして期待があるために、飽きないことが求められるということでした。

僕たちが何を成したくて、何をしたいのか、それを考えるのであれば「飽きるか飽きないか」なんて判断はもはや不要だと僕は思っています。

この記事はShodo (https://shodo.ink) で執筆されました。