っていう時代になりつつあるのかなと感じるこのごろです。
というか皆んなインターネットに疲れてしまった。
まぁこれは完全に僕の戯言なのでデータがどうこうというわけではないです。エッセーでごわす。
何だかインターネットに疲れてしまって、インターネットにある「正しい生き方と価値観でなきゃいけない」的な感覚がしんどくなってきている。インターネットで色々な価値観に触れたり、他人の言葉を聞くと自然と正しさを模索してしまうものです。というか、そうしないと炎上してしまう的な背景もあるのでそうなりがち。とくに2016年とか2017年くらいから、よりインターネットなどで「正しさ」的な価値観が広まった感覚があります。僕はTwitterが好きなので、タイムラインの並びが時系列順じゃなくなったころからその感覚が強い。タイムラインが「自分のチャット」から「世界の意見」になったのも大きいのかもしれない。
また感染症や戦争や大地震と、インターネットを見ていて心が疲れてしまう要素が最近は多い。知れるのはとても良いことだけど、付き合い方を考えないと自分の心が潰れてしまう感じがする。というか潰れそうな人を多く見ている。インターネットでの振る舞いを頑張ったが結局「手に入った世界がこれか」という気持ちが僕にあります。特に最近Twitter(現在はX)の居心地が悪く過激なのもあって、色々と自分を律してインターネットを頑張る意味とは何かと虚無になっている。
クズ的なコンテンツもウケている肌感があって、マンガだとヤニ猫、地元最高!があったり、芸人だと粗品、カミナリ、金属バットあたりもウケている感じがします。もう皆んな何だか疲れちゃって、そういう奔放な人でありたい欲求が高まってるのかもしんない。それこそ数年前のTwitterでタバコと言えば嫌煙家が必死に叩いていた印象があって、僕の友だちなどもすごい剣幕で否定していたのを覚えている。僕は人前では吸わないものの喫煙者なので、友人にキレられるのはすごく辛かった(直接僕にキレてないわけだが)。最近はもう分煙が進みまくったおかげで嫌煙家も目につかなくなっているし、タバコを吸う猫がコンテンツとしてウケているのは何かの転換を感じる(キレ散らかしてたのに何やねんという気持ちもちょっとある)。
ここでタイトルの仮説なんだけど、もう皆んなインターネットで正しく生きることに疲れてしまって、平和なクズで良いじゃん的な空気感に憧れてるのかもしれない。感覚的には70年代のヒッピームーブメントに近い。他人にちょっと迷惑はかけつつも、まぁお互い様だよね的な世界観。もちろん個々への配慮みたいなのは大事にしつつ、でも過剰に気にしたり心が疲れるのは違うよねって流れ。10年前くらいに僕は成人漫画のレビューをTwitterに書いていたのだけど、知人に苦言を呈されてやめてしまった。あれを続けるくらいのメンタリティが欲しいなという気もしている。いや立場上、もう難しいかもしんないけど。
結局ここで言いたいのは、皆んなが求めていた配慮のある世界みたいなのも、まずは自分の弱いところとかダメなところを認めて許し合うことから始めるべきだったのかもしんないってことです。たとえばだけど男性の中にある生きづらさの共有とか、もっとされてほしかった。ここ数年は他人にそれをしなきゃと思ってたけど、自分がないがしろになってしまったという。そしてインターネットに疲れてしまった。だからクズである自分を認めてほしいな(クズなコンテンツって良いなと感じる)ということです。まぁ、完全に仮説というか、僕がそう感じているだけなのかもしんない。
まぁだからこそ他人への配慮とかは大切にしつつ、自分も好きに生きて、それでも良いねって思いあえる世界を作りたいねって話でした。All You Need Is Loveってことで。
執筆:Kiyohara Hiroki (@hirokiky)
(Shodoで執筆されました)